鍵付き

はい

 これについて、今読み返すとコイツ何が言いたいのか全く分からんから覚えている内に補足しておこう。

 

我々陰の者は折に着けて強者の発する自然な言葉群に自分勝手な理屈をつけて無理やり悪意を見出してしまうところが少なからずあるが、これがいわゆる「そういう感じ」のこと。もちろん相手は何の含みもなく言ってること(だよな?)だが、一度この「そういう感じ」を見出してしまったが最後、もう後には戻れない。コイツはこの言葉を悪意をもって発している「可能性がある」という思いに囚われ、二度とその人間を心から信用することができなくなる。そうした特性を持ってしまったがゆえに、これまで幾度となく人間関係をリセットしてきた同胞もインターネット上で数多く観測できる。

 

これを回避するために対話という手段をもって事態の解決を望んだ同胞もいたことと思うが、真摯な対話はお互いの真摯な態度によってしか生まれない。「そういう感じ」を見えるよう提示する手法をこちらが非難したところで、「は?出してないけど?」と言われればそこで諸々が終わる。そうでなくとも、仮に相手がこちらの意を汲んでくれたとしても、終わるものもある。これまで曲がりになりにも愛想よく振舞ってきたことによる自身の人格への信頼はその代表たるところである。腫れ物扱いならまだ良い方で、醜聞等の被害が連鎖的に広がっていく可能性も十分危惧するに値する事態であろうと思われる。それに対して我々が得られるものはあまりに少ない。舐められない代わりの腫れ物扱いを許容できる人間ならば、こうなってはいない。そうしたリスクを背負ってまでこの手段はとることは我々にとって少なくとも賢明ではない。

 

であればどうするか。口をつぐむしかない。ただただ閉口し、諸々をやり過ごすほかない。時には、どれだけあからさまに「そういう感じ」が見えていようが、むしろ「そういう感じ」に乗っかったうえで、顔にはひきつった笑みすら浮かべて、プライドや自尊心をかなぐり捨てて、「そういう感じ」を感じなかったかのようにふるまうほかない。そういう星のもとに生まれてきてしまったか、あるいはこれまでの怠惰な人生のツケが回ってきたのか、なんであれこの手段が世界で最も多くの同胞に消極的にであれ支持され、採用されてきた手段であることは想像に難くない。我々陰の者は、最低限の社会性をもって生まれ、育ってきてしまった。それゆえに、こうした波風を立てない手段を取りうる。それが幸か不幸かと言えば、無論幸であるのだ。他に何も持っていなくとも、プライドや自尊心をお賃金に変えることができるのだから。そうに決まっているんだ…

 

興が乗り、弱者気どりのド痛いおじさんによる吐瀉物が生み出されてしまったけどなんかもったいないから置いとくね。

我々って誰だよ